海外の中学校に通い、日本のインターナショナルスクールに通い、その後海外の大学を卒業して、日本にやっと帰ってきて就職した私が、日本に対して強く感じた一番のコトワザは、これ:
「覆水盆に返らず」
英語でいうところの、
It is no use crying over spilt milk. =こぼれたミルクを嘆いても無駄。
なぜかというと、一旦失敗するとなかなかカムバックしにくい社会だな、と感じたから。
一旦人間関係がこじれるとなかなか元に戻らない。
他人って所詮他人なので、言いたいことを言ってナンボ、という感覚が外国人の中にあるのは、他民族国家だからというのがある。
そもそも同じ言語を母国語として喋っている確率そのものが低いため、自分の言っていること、言いたいことを相手が100%理解してくれるということが難しいのだから、とりあえず、伝わらなくても、希望が通らなくても、言うだけ言ってみよう、という感覚になる。
ところが、単一民族国家の日本では、すべてが推察、推し量ってナンボ。
相手の気持ちを考えて、推量して、気分を害さないように、
マイナスな感情が流れないように、
すぐ割れる花瓶をもって氷の張った池の上を歩いているかのように慎重に、
人間関係を構築する。
だから、ちょっと人に言われただけで凹むような人がたくさん育つ。
だから、「お客様は神様」「忖度」のような、英訳したいとも思わないような文化が育つ。
だから、ハッキリ表立って言えない反面、緊急事態宣言下の自粛警察みたいな人間がすぐ助長される(逆に)。
だから、緊急事態宣言一つ発するのに、「思います」をすべての語尾につけちゃうような文化が育つ。
それが悪いとは思っていない。そういう繊細さも、家族や親友といった親しい間柄では必要だろうし、そういうときもあって、人間性は育つものだと思う。
でも、この何重にもオブラートに包んで表現するコトバや気持ちを、どの人にも展開していたら、人間は疲れてしまうような気がする。
ちょっとくらいガサツなほうが、幸せ?
という気持ちが、「鈍感力」という流行り文句にも表れていないだろうか。
この外国人のガサツなところを、私は勝手に
「言ってみようやってみよう精神」
と呼んでいる。
そして、日本人との会話や距離感で悩んだときには、コトバにして、自分に言い聞かせることにしている。
それは、恐らく、今後どんなに日本社会に慣れても、続く習慣だと思う。