先日、親戚の入っている老人ホームを訪れた際に、看護師さんが、
「高齢者の方に、赤ちゃんコトバで話すのはNG。高齢者であっても、一人の大人であることに変わりはないので、フツーに話すことが一番。」
というのを聞いた。
これは、ある意味真実だと思う。
これで、思い出したこと:アメリカでは、高齢者も一人で行動することが多い。
健常者も、車イスの人も、子どもも、高齢者も、男性も、女性も、「一人の人間」として自分の足で立って生活している。
「私は、〇〇だから・・・」
「私は、××だから・・・」
と、言い訳ができない分、ちょっとシビアな社会でもある。
だから、フラフラしながら、杖をつきながら、おばあさんが、真っ赤なバラ色のロングコートを着て、バスに入ってくる。真っ赤なルージュの口紅をつけて(松任谷由美か!w)、入ってくる。あまりにも、塗りたくっているため、シワに入り込んで、唇から外ににじみ出ているけど。w
でも、彼ら高齢者は、堂々と生活している。
もちろん、「堂々と生きる」ことには、責任が伴う。しんどかったりもする。後ろ指をさされることもある。
「堂々」たる態度には、それだけの「自由」+「責任」が伴う、という生き方を反映しているのが、「英語」という文化である。
なぜ、これが英語という言語に反映されているかというと、
英語:
※すべて「主語」からスタート。
※まず、言いたいことを先にいう。その後、”because…”と続く。
この、英語文の語順自体、この「自由」と「責任」を反映したものなのだ。
この「自由」と「責任」を反映した結果が、「高齢者にもフツーに話しかける」ことだったり、「高齢者も真っ赤なコートを着る」という形に表れてきているような気がする。
そう考えると、もし「自由」と「責任」を取ることを恐れないのなら、グレーの服を着て、色の薄い靴を履いて、社会の中で控え目に、生きなくても良いと思う。
そして、その「自由」と「責任」を取ることを恐れない人間を育てるのが、国や教育の力なのだと思う。
英語は、そういう国としての思想が表れている言語だ、ということを、認識して、勉強してほしい。その認識は、英語スキル向上に大いに役立つ。